【人々の哀しみや苦悩をこまやかに描出】フランス、ジロンド県ボルドーの生まれ。少年時代から映画に興味を持ち、パリに出て美術学校に入る。1931年ころから16 ミリの短編映画、35ミリのアニメーションを作った。カメラマン、助監督として活動し、36年には短編「左側に気をつけろ」で監督としてデビュー。以後43年までに7 本の短編映画を作った。戦争直後の45年には、ナチ占領下のフランス鉄道従業員組合のレジスタンスを描いた「鉄路の闘い」を発表、カンヌ映画祭グランプリを受賞し注目を浴びる。また同年、ジャン・コクトーの「美女と野獣」の技術顧問を務めた。次いで、ナチの潜水艦を舞台にした「海の牙」(47)、ジャン・ギャバン主演の「鉄格子の彼方」(49)、そして52年「禁じられた遊び」で、小さな子供の十字架遊びを通して反戦を痛烈に、しかし詩情豊かに訴え、ヴェネチア映画祭金獅子賞受賞。さらにエミール・ゾラ原作の「居酒屋」(56)では19世紀の混乱したパリの下町を舞台に、極度の貧困に悩む主人公以下登場人物の悲惨さを描いた。これでルネ・クレマンの名は、フランス映画界のみならず、世界的な一流監督として不動のものとなったのである。【ヌーヴェル・ヴァーグに対抗して】60年には、貧乏ゆえに根深い劣等感を持つ男が犯した行為を、華麗なるサスペンスとして描いた「太陽がいっぱい」を撮る。当時ヌーヴェル・ヴァーグが著しく台頭してきた時代で、脚本を「二重の鍵」のポール・ジェゴフ、撮影を「いとこ同志」「大人は判ってくれない」のアンリ・ドカエに依頼するなど、旧世代であるクレマンは彼らへの対抗意識から製作したといわれている。この作品でアラン・ドロンが一躍スターダムに上った。さらに「生きる歓び」(60)、「危険がいっぱい」(64)とドロン作品が続き、66年には大作「パリは燃えているか」を撮る。第二次大戦末期、パリのレジスタンスの活動の姿、そして、連合軍によるパリ解放までの2週間の壮絶な情景を、豪華な俳優陣で描いたものだ。チャールズ・ブロンソンの人気を定着させたサスペンス「雨の訪問者」(70)、これも産業スパイを描いたサスペンス「パリは霧にぬれて」(71)、ジプシーとギャング一味から追われる男を主人公にしたファンタスティックなミステリー「狼は天使の匂い」(72)、そしてミステリー・ロマン「危険なめぐり逢い」(75)など、フランス映画の巨匠の座に安住することなく娯楽作、商業作品を連発した。以降は映画製作から離れるようになっていった。