【発禁処分を経て、現代ロシアを代表する世界的な名匠に】旧ソ連シベリア地方、イルクーツクのポドルヴィハ村に生まれ、軍人だった父の転勤伴いポーランド、トルコ、トルキスタンで少年時代を過ごした。ゴーリキー大学で歴史学を学び、モスクワの国立映画学校監督コースへ進学。卒業制作の「孤独な声」(78)は大学からも政府当局からも拒絶され公開禁止処分を受けたが、アンドレイ・タルコフスキーの推薦でレン・フィルム撮影所に就職し、多くのドキュメンタリーを手がける。しかしソクーロフの作品はすべて発禁扱いされ、ペレストロイカ後の1987年まで一般公開されることはなかった。ソビエト崩壊後、この時期のドキュメンタリー「マリア」(78)、「痛ましき無関心」(83)から、「日陽はしづかに発酵し…」(88)をはじめとする新作劇映画が旺盛に発表され、90年代以降のロシア映画を代表する監督として認知される。そして2002年、エルミタージュ美術館で90分ワンカット撮影を敢行した「エルミタージュ幻想」で、ソクーロフの名は国際的なものとなった。日本への関心が深いことでも知られており、99年に『死の棘』の作家・島尾敏雄の妻、島尾ミホに密着したドキュメンタリー「ドルチェ・優しく」(99)を発表。また、昭和天皇を主人公にした「太陽」(05)は公開前から日本で大きな話題となり、単館公開にもかかわらず大ヒットを記録した。ドキュメンタリーと劇映画を交互に製作し続け、世界的チェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチの記録映画「ロストロポーヴィチ・人生の祭典」(06)のあとに、ロストロポーヴィチ夫人のガリーナ・ヴィシネフスカヤを主演に据えた劇映画「チェチェンへ・アレクサンドラの旅」(07)を発表したりもしている。【タルコフスキー以降のロシア映画を牽引】映画監督として活動し始めた20代から30代半ばまでは、政府当局から一般公開を禁止され不遇の時を過ごした。映像と音、光を駆使した絵画のような画面構成、キリスト教的世界観、生と死のエロティシズムなどがソクーロフの特徴として挙げられ、その代表例が初期作の「日陽はしづかに発酵し…」である。これらの要素を組み合わせて壮大なスケールの映画空間を生み出すところには、しばしばタルコフスキーの影響が指摘されている“生と死の三部作”(「セカンド・サークル」「ストーン・クリミアの亡霊」「静かなる一頁」)、“人間関係に焦点を当てた三部作”(「マザー、サン」「ファザー、サン」、「ブラザー、シスター」)、“権力者の四部作”(「モレク神」「牡牛座・レーニンの肖像」「太陽」、「Faust」)といった、ある主題に沿ったシリーズを定期的に発表。職業俳優ではない人間を役者として起用することも多く、「日陽はしづかに発酵し…」「ファザー、サン」に見られるように美青年を好む傾向もある。