【アクションとロマンを貫いた大ヒット請負人】兵庫県神戸市生まれ。1944年、新居浜工業専門学校に進むが軍事教練に反発して45年7月、退学処分。戦後、大阪外国語大学ロシア語科に入り直す。名作フランス映画の再上映に感激して卒業と同時に上京、50年8月、新東宝助監督部に入社。中川信夫、井上梅次の下で働きながら、自分でもシナリオを書く。54年末、製作再開した日活に、井上梅次に従って移籍。石原裕次郎の「鷲と鷹」などの助監督を務める。58年、「心と肉体の旅」でデビュー。第3作の「錆びたナイフ」(58)が、カーチェイスの迫力と裕次郎の主題歌で大ヒット。これが日活アクションの基本形となる。日活アクションは無国籍アクションから成熟期のムード・アクション、任侠アクション、後期のニュー・アクションまでスタイルを次々と変遷させるが、その全てに携わり、日活作品だけで53本を撮る。裕次郎主演作を最も多く撮った監督であり、「望郷」の翻案「赤い波止場」(58)、任侠アクション「花と竜」(62)、ムード・アクションの決定版「赤いハンカチ」(64)などその数は25本に及ぶ。主人公をアウトローにすることで裕次郎の魅力の開拓と自分のやりたい世界が一致できていた、と後に本人が語る時代である。その信頼関係から、当時のタブーを破って裕次郎が劇中で死ぬ「太陽への脱出」(63)のような野心作が生まれる。さらには「紅の流れ星」(67)、「無頼より・大幹部」(68)などで渡哲也のスター性を引き出し、フリーに転身後、黒澤明が降板した「トラ・トラ・トラ!」(70)の日本側監督を深作欣二と共同で担当した。【娯楽一筋に幅広いジャンルで】70年代からは日活アクションで鍛えた力量でたちまち各社から招かれる売れっ子となり、またどんなに毛色の違う題材でも一級に料理して応えてみせる、大車輪の活躍を見せる。宗教団体の誕生する様子を描いた「人間革命」(73)、SFスペクタクル「ノストラダムスの大予言」(74)、アニメ・ブームの火付け役となった「宇宙戦艦ヤマト」(77)、東映の戦記もの「二百三高地」(80)や「大日本帝国」(82)、ジャニーズの人気アイドル・たのきんトリオの「ハイティーン・ブギ」(82)などが主な作品。年間興行ランキングのベストテンに常に作品を送り込む、日本映画界きってのヒット・メーカーだった。大新聞社の後継者争いをダイナミックに描いた企業アクション「社葬」(89)で、初のキネマ旬報ベスト・テン入りを果たす(9位)。91年には「動天」「必殺!5・黄金の血」「江戸城大乱」と三本の時代劇を連作し、衰えぬスタミナを見せる。これ以降もアニメ作品の監修やテレビ・ドラマの演出で活躍した。