【カメラを携え被写体に踏み込む疾走するドキュメンタリスト】山口県の生まれ。県立山口高校定時制を卒業後、1965年に上京し、カメラマンを目指して東京写真綜合専門学校に通ったが1年半で中退。新聞記事がきっかけで身障者に興味を持つようになり、都立光明養護学校の介助員を2年間務めて、同じ介助員の武田美由紀と知り合った。69年、撮り溜めた身障者の子供たちの写真を集めた個展『ばかにすンな』を開催。その会場で、当時は脚本家志望だった小林佐智子とも出会う。同年、武田美由紀と結婚。またこの頃から、当時東京12チャンネル(現・テレビ東京)の社員として先鋭的なドキュメンタリー作品を生み出していた田原総一朗の撮影現場に出入りすようになり、田原がプロデュースするテレビドキュメンタリー『日本の花嫁』(71)で、武田とともにインタビュアーを務めた。これが縁となって同局撮影部で16ミリカメラの操作を覚え、次第に写真からドキュメンタリー映画へと関心が移っていった。72年、小林佐智子と疾走プロダクションを設立。第1作として、CP(脳性小児麻痺)者の団体“青い芝”の横田弘、横塚晃一との共同製作で「さようならCP」を撮った。安易なヒューマニズムとは無縁なところで身障者と向き合った記録映画で、原はたちまち注目を集める。74年には2年がかりで撮影を行った「極私的エロス・恋歌1974」を発表。原と別れて沖縄で生活を始めた武田が、原との間に生まれた男児と一緒にたくましく生きる姿を収めた作品である。ここでは原がカメラを持ち、当時すでに原と共同生活を始めていた小林が録音を担当して、被写体こそ武田美由紀だが、原自身の生き方を赤裸々に記録した私映画となった。【社会現象ともなる問題作を発表】その後は姫田真佐久カメラマンに師事して、多くの映画に撮影助手として参加。またテレビドキュメンタリーの演出や浦山桐郎監督「太陽の子・てだのふあ」(80)の助監督、熊井啓監督「海と毒薬」(86)の監督補なども務めた。熊井には重用され、以後も「深い河」(95)までたびたび監督補を務めている。一方、自身の監督作としては沈黙が続いたが、87年に第3作「ゆきゆきて、神軍」を発表。“天皇パチンコ事件”などで知られる元日本兵・奥崎謙三が、戦時中の出来事の真相を追究し、かつての上官たちに詰め寄っていく、その姿をカメラで追い続ける。この作品はセンセーショナルな話題と論争を巻き起こし、予想外のヒットとなると共に高い評価を得て、日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ映画賞など多数を受賞した。この間の86年に小林佐智子と再婚。小林は今日に至るまで疾走プロ代表として原の創作を支える。89年、作家・井上光晴の姿を記録する「全身小説家」の撮影を開始。92年の井上の死去を挟み、5年がかりでようやく完成して94年に劇場公開されるや、記録映画の枠を越えるヒットとなると同時に作品的に高い評価を得た。翌95年には次世代のドキュメンタリー作家の養成を目指し“CINEMA塾”を開塾。その第1回作品として、塾生たちとの共同監督による「わたしの見島」(99)を発表している。さらに2005年、原にとって初の劇映画となる「またの日の知華」を監督。主人公のひとりの女性を4人の女優に演じさせるなど、随所に斬新な発想が盛り込まれた野心作となった。