【東宝ヌーヴェル・ヴァーグ、東宝青春路線】ドキュメンタリー・タッチ。東京都生まれ。慶応義塾大学在学中は新聞部に所属しジャーナリストを志すが、のちに映画での自己表現を求めるようになる。55年、大学卒業と同時に助監督試験を受けて東宝へ入社、同期に森谷司郎がいた。東宝では主に堀川弘通監督につく。60年に同監督作のチーフ助監督になり、社内同人誌に書いたシナリオ『ドブねずみ』が認められ、助監督10年が当然の時代に27歳で監督へ昇進。翌61年に「若い狼」(前記脚本改題)で劇場デビューを果たした。続けて数本の青春映画を手がけ、一時期はブランクが生じたものの、66年、内藤洋子売り出し企画の「あこがれ」で新生面を切り開き、東宝青春路線の騎手となる。「伊豆の踊子」(67)、「めぐりあい」(68)と青春映画の佳作を立て続けに手がけるが、70年代半ばから主な活動の場をテレビに移した。アニメーション映画「地球へ…」(80)の演出を経て劇映画に戻ったのは、85年の「生きてみたいもう一度・新宿バス放火事件」で、実に11年ぶりの実写監督作であった。その後は寡作ながら「四万十川」(91)、「わらびのこう/蕨野行」(03)といった話題作を発表している。【青春映画ばかりにあらず】50年代半ば、日活で太陽族映画が生まれた際、東宝ではいささかの内紛の末、石原慎太郎の監督作と、新人監督作とを続けて送り出すことになった。そこで50年代末に続々と助監督から監督に昇進していくのが岡本喜八、須川栄三、恩地ほかの面々であり、彼らの勃興を“東宝ヌーヴェル・ヴァーグ”と称す向きもある。記録的な若さでデビューを果たした恩地はその先鋭的存在であり、「若い狼」をはじめとする尖った青春映画群は観念的とみなされ、会社からは敬遠されてしまった。だがブランク後の「あこがれ」等は、みずみずしいタッチで誠実な若者像を描くスタイルを確立し、同時期他社の青春映画とは異なった東宝青春映画の路線を開拓した。70年大阪万博の際にドキュメンタリーを手がけたことからその方法論に興味を持ち、さらにテレビのドキュメンタリーに取り組むことがドラマ演出への移行につながる。『人間の証明』『飢餓海峡』などのテレビ版を撮り、ドキュメンタリー・タッチを貫いた『戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件』(79)は特に高く評価された。この映画雌伏の時期が、11年ぶりの劇場作品「生きてみたいもう一度」へと発展し、清廉なリアリズムを持つ90年代以降の作品につながっていくのだ。以上のように恩地の活動はおよそ四期に区切られ、常に新しい分野に挑戦してきたことが伺われる。