【華麗な映像で一世を風靡した青春映画の旗手】東京都生まれ。日活の時代劇が好きでよく映画館に通う。映像分野の仕事に就くため東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)に入学、1947年に卒業。志望は映画のカメラマンだったが、48年にアルバイトに行った東宝ではスチールに回され、49年に太泉映画(後の東映東京撮影所)撮影部に入社するが、やはりすぐスチールに異動。53年、東映初の大作である今井正「ひめゆりの塔」を任され、読者の投票によるキネマ旬報スチール・コンテストの第1位に選ばれる。54年、日活の製作再開と同時に引き抜かれ、石原裕次郎主演作、市川崑や今村昌平監督作のスチールを主に担当。裕次郎とは親しく付き合い、58年に出版された『海とトランペット/石原裕次郎写真集』が評判を呼ぶ。日活のトップ・スチールマンとして活躍する一方で、この頃から脚本を書き出す。主な脚本作に中平康「月曜日のユカ」(64)があるが、自分のイメージと仕上がりに落差を感じることが多く、演出への転身を本格的に考えるようになる。66年、今村の「“エロ事師たち”より・人類学入門」に演出スタッフとして参加。続く「神々の深き欲望」の撮影にも加わるが監督デビューの話が動き出したため途中でバトンタッチ。日活を辞め私財を投じて斎藤プロを設立、脚本・撮影・音楽も兼任した「囁きのジョー」(67)を松竹配給で発表する。以降、松竹を主な活動の場に「小さなスナック」(68)、「落葉とくちづけ」(69)などヒット曲をモチーフにした歌謡青春ドラマの秀作を次々と撮る。72年、「約束」「旅の重さ」を発表。ローカルな風土を舞台に、感性に直接訴える映像美が批評家とファン両方に新鮮な驚きを与え、日活ロマンポルノの監督たちと共に新しい青春映画の担い手として一躍脚光を浴びる。【人間ドラマへの衰えぬ意欲】翌73年、松竹での2本の小品を挟んでATGと斎藤プロの共同製作「津軽じょんがら節」を監督。キネマ旬報ベスト・テン1位、芸術選奨文部大臣賞などを受賞、名実共にトップクラスの監督として注目されながら、「無宿」(74)、「竹久夢二物語・恋する」(75)などを発表する。「幸福号出帆」(80)以降はテレビや記録映像、舞台の演出などで活躍するが、88年、久し振りの劇映画「青いやどなし山脈‘88」を監督。かつての映像派からオーソドックスなドラマ志向になり、浦山桐郎の遺稿脚本の映画化「人間の砂漠」(90)、戦中戦後の混乱期を生きる少年を描いた「望郷」(93)、実話を基にした「稚内発 学び座」(98)や「親分はイエス様」(01)など粘り強く発表を続ける。「おにぎりARCADIA物語」(04)は、日本のコメをテーマに2年間の長期ロケを経て完成した。