〈吾亦紅の章〉明治三十七年紀州の片田舎で朋子は父を亡くした。三歳の時のことだ。母の郁代は小地主須永つなの一人娘であったが、大地主田沢の一人息子と、須永家を継ぐことを条件に結婚したのだった。郁代は二十歳で後家になると、その美貌を見込まれて朋子をつなの手に残すと、高坂敬助の後妻となった。母のつなは、そんな娘を身勝手な親不孝とののしった。が幼い朋子には、母の花嫁姿が美しくうつった。朋子が母郁代のもとにひきとられたのは、祖母つなが亡くなった後のことであった。敬助の親と合わない郁代が、二人の間に出来た安子を連れて、貧しい生活に口喧嘩の絶えない頃だった。そのため小学生の朋子は静岡の遊廓叶楼に半玉として売られた。悧発で負けず嫌いをかわれた朋子は、芸事にめきめき腕をあげた。朋子が十三歳になったある日、郁代が敬助に捨てられ、九重花魁として叶楼に現れた。朋子は“お母さん”と呼ぶことも口止めされ美貌で衣裳道楽で男を享楽する母をみつめて暮した。十七歳になった朋子は、赤坂で神波伯爵に水揚げされ、養女先の津川家の肩入れもあって小牡丹という名で一本立ちとなった。朋子が、士官学校の生徒江崎武文を知ったのは、丁度この頃のことだった。一本気で真面目な朋子と江崎の恋は、許されぬ環境の中で激しく燃えた。江崎の「芸者をやめて欲しい」という言葉に、朋子は自分を賭けてやがて神波伯爵の世話で“花津川”という芸者の置屋を始め独立した。〈三椏の章〉関東大震災を経て、年号も昭和と変わった頃、朋子は二五歳で、築地に旅館“波奈家(はなのや)”を開業していた。朋子の頭の中には、江崎と結婚する夢だけがあった。母の郁代は、そんな朋子の真意も知らぬ気に、昔の家の下男八らんとの年がいもない恋に身をやつしていた。そんな時、神波伯爵の訃報が知らされた。悲しみに沈む朋子に、おいうちをかけるように、突然訪れた江崎は、結婚出来ぬ旨告げて去った。郁代が女郎であったことが原因していた。朋子の全ての希望はくずれ去った。この頃四十四歳になった母郁代は、年下の八らんと結婚したいと朋子に告げた。多くの男性遍歴をして、今また、結婚するという母にひきかえ、この母のため、女の幸せをつかめぬ自分に、朋子はひしひしと狐独を感じた。終戦を迎えた昭和二十年、廃虚の中で、八らんと別れて帰って来た郁代にとまどいながらも、必死に生きようとする朋子は“花の家”を再建した。それから三年、新聞の片隅に江崎の絞首刑の記事を見つけた朋子は、一目会いたいと、巣鴨通いを始めた。村田事務官の好意で金網越しにあった江崎は、三椏の咲く二月、十三階段に消えていった。病気で入院中の朋子を訪ねる郁代が、交通事故で死んだのは朋子の五十二歳の時だった。波乱に富んだ人生に、死に顔もみせず終止符をうった母を朋子は、何か懐しさをもって思い出した。母の死後子供の常治をつれて花の家に妹の安子が帰って来た。朋子は幼い常治の成長に唯一の楽しみをもとめた。昭和三十九年、六十三歳の朋子は、常治を連れて郁代のかつての願いであった田沢の墓に骨を納めに帰った。しかしそこで待っていたのは親戚の冷たい目であった。怒りにふるえながらも朋子は、郁代と自分の墓をみつけることを考えながら、和歌の浦の波の音を聞くのだった。