【最初の国産トーキー映画を監督した庶民派の名匠】東京都の乾物問屋に生まれる。本名は平右衛門。父・平助の妾腹の子で、五歳の時に本家の一粒種の長男が夭死したため、芸者であった生みの母の許を離れ、跡継ぎにされた。23年、慶應義塾の商工学校を卒業後、父親同士が親しかったため、島津保次郎の口添えで蒲田撮影所に入社する。島津の助監督につき、25年、原作、脚本も書いた「南島の春」で監督デビューを果した。翌年の「彼女」は、実母の薄幸な生涯を偲びながら、真の愛情に生きる二号の苦悩を描いたもので、出世作となった。下積みの女性たちを深い哀惜をこめて描く叙情的な作風は、その出自ゆえともいわれる。27年、田中絹代主演の花柳もので、若い芸者の哀話「恥しい夢」、潮来でロケした「からくり娘」、信濃追分でロケした飯田蝶子がユーモラスな「おかめ」、そして翌年の「村の花嫁」では、自然描写に卓越した手腕を発揮し、絶賛された。【田中絹代とのコンビで多くのヒット作を放つ】次第に、松竹蒲田撮影所きっての技巧派としての名声も高まり、詩情豊かでユーモアにあふれた庶民映画の伝統を確立、31年には国産トーキー第一作「マダムと女房」を監督する。当時はすべてが同時録音で、現場では苦労が絶えなかったが、見事に成功させた。33年には、新進作家だった川端康成原作の「伊豆の踊子」を監督。人気絶頂だった田中絹代が踊子、大日方傳が一校生に扮し、昭和初期の伊豆のひなびた風物を鮮やかにとらえた。その後も、田中絹代とのコンビで「人生のお荷物」(35)、「新道」(36)、「花籠の歌」(37)を撮るが、42年、感情の行き違いから松竹大船撮影所を辞め、大映に移って、「新雪」(42)、「五重塔」(44)を撮った後、ふたたび大船に復帰した。戦後は、東宝で「今ひとたびの」(47)、「面影」(48)を撮り、51年平尾郁次たちとスタジオ8プロを結成、新東宝と提携した。代表作「煙突の見える場所」(53)は、現代の不安の中に生きる庶民の姿と愛情のあり方を追究した喜劇で、ベルリン映画祭で国際平和賞を受賞している。原作者の椎名麟三とは固い結びつきができ、「愛と死の谷間」「鶏はふたたび鳴く」(54)が生まれた。原田康子のベストセラーの映画化「挽歌」(57)も久我美子主演で大ヒットさせた。井上靖原作の「わが愛」(60)は妻子ある佐分利信の愛人として生きた女性を演じた有馬稲子が称賛された。64年には小津安二郎の後を継いで、日本映画監督協会の理事長に就任。68年には安藤鶴夫と組み、竹田人形座によるあやつり人形劇映画「明治はるあき」で芸術祭奨励賞を受けている。芭蕉の『奥の細道』の映画化が、晩年の夢であった。俳人としても知られ、五所亭という俳号で活躍、俳人協会監事も務めた。