【独自のストーリーテリングで頂点に立ったハリウッドの寵児】インド、ポンディチェリの生まれ。幼い頃にアメリカ・フィラデルフィア州に移住。8歳の誕生日に8ミリカメラを贈られ、10代のうちに数10本の短編を作る。当時の憧れはスティーヴン・スピルバーグ。両親も親戚も医者という家庭環境で有名医大の奨学金にも合格していたが、映画の道へ進むことを決意し、ニューヨーク大学ティッシュ大学院(映画科)の卒業制作「Praying with Anger」(92)で初監督をつとめる。インド系アメリカ人の学生がインドで異邦人の立場になる半自伝的な物語で、アメリカ映画協会(AFI)最優秀新人賞を受賞。次いで1995年、コロムビア映画から「スチュアート・リトル」の脚本を依頼され、映画界への足がかりを掴む。少年と祖父の交流を描く98年の第2作「翼のない天使」が劇場公開デビュー作(日本未公開)。映画は芸術作と商業作に二別されると思っていたが観客軽視につながると考えを改め、オリジナル脚本を執筆してディズニーに持ち込む。ディズニー傘下のハリウッド・ピクチャーズと契約して監督した「シックス・センス」(99)は、静かな恐怖とどんでん返しの結末を鮮やかに描く新しいスリラーの語り口で観客の心を動かし、全米5週連続1位の社会現象的ヒットに。この成功を受けて個人プロダクションを設立後、「アンブレイカブル」(00)、「サイン」(02)を相次いで発表。現代ハリウッドでは数少ない名前で観客を呼べるスター監督となる。しかし、続く「ヴィレッジ」(04)が興行的に苦戦。「シックス・センス」以来緊密な関係だったディズニーから離れ、06年、熱心なオファーのあったワーナー・ブラザーズで「レディ・イン・ザ・ウォーター」を監督する。娘たちに語って聞かせた物語をもとにし、同名絵本も出版するなど力を入れた作品だったものの、これも興行は振るわなかった。08年には20世紀フォックスから「ハプニング」を発表。全ての自作を原案から手がけて来たが、「エアベンダー」は原作つきでファンタジー世界を舞台にした初の作品となった。【“現代のヒッチコック”と呼ばれて】意表を突くドンデン返しの奇想と、登場人物が過去に苦しむ複雑な内面のドラマ。相反する要素を気配の描写に長けた卓抜な演出力で織り合わせ、“現代のアルフレッド・ヒッチコック”と称された。自作のどこかに顔を出す遊び心のみならず、20代でスリラーの歴史を変えた点、ミステリアスな題材への執着とパーソナルな作家性が一体化した点でも両者の像は重なる。学生時代は白人ばかりの教室で周囲から浮いている気持を味わい、当時の孤独感を現在も忘れていないという。ブルース・ウィリスやメル・ギブソンのようなアクションスターに繊細な人物を演じさせる傾向には、屈折した自身の投影が感じられる。「サイン」以降は集客力が落ち、自作アイディアに拘泥する方向性を本国でも批判されている。これを承けてか、近年は自身の心境の変化に忠実でありつつエンタテインメントとの融合に腐心する発言もみられた。