【あり余る才能を複数の分野で発揮し続けた異能】青森県弘前市の生まれ。10歳の時に父が戦病死し、1949年、青森市で映画館を経営する親戚に引き取られて、高校卒業までをスクリーン裏の20畳の楽屋で過ごした。それ以前から映画少年であった寺山は、同時に俳句や詩作にも興味を持ち、54年に早稲田大学教育学部に入学したのち第2回短歌研究新人賞を受賞するなど、すでに寺山の名は天才歌人として知れ渡っていた。大学は1年足らずで中退し、59年、詩人・谷川俊太郎の勧めでラジオ・ドラマの台本を書き始めると、投稿した『中村一郎』が民放大賞を受賞。60年には長編戯曲『血は立ったまま眠っている』を劇団四季が上演し、自らも“ジャズ映画実験室”を組織して16ミリ映画「猫学 Catlogy」を演出するなどした。同年、篠田正浩の「乾いた湖」のシナリオを執筆し、自らも出演。この時、SKD出身の女優・九條映子と出会っている。以後も「夕陽に赤い俺の顔」、「涙を、獅子のたて髪に」などの篠田作品や、羽仁進の「初恋・地獄篇」の脚本を担当したが、寺山の才能はひとつのジャンルに留まることを知らず、67年には演劇実験室“天井桟敷”を設立して演劇界での本格的な活躍を始める。この間の63年に九條と結婚。のち70年に離婚はするが、九條は寺山の理解者として最後までその創作活動を支えた。70年、16ミリ長編「トマトケチャップ皇帝」を監督。大人の世界に対する子供たちの反乱を描き、ツーロン映画祭審査員特別賞を受賞した。初の35ミリ劇場用映画となった「書を捨てよ町へ出よう」(71)は、撮影所全盛の時代が終わりつつあった日本映画界に新風を吹き込む衝撃作となり、74年には映画による自叙伝とも言うべき「田園に死す」を発表して、映画界での評価を決定的なものにする。【創作に殉じた47歳の早すぎる死】以降も前衛的な長・短編を16ミリで撮り続ける一方で、77年には東映で菅原文太、清水健太郎主演の「ボクサー」を監督。商業映画においても寺山らしさを貫き、翌78年の東陽一監督「サード」の脚本も絶賛された。演劇同様、豊饒なイメージと日本的な色彩が強烈な寺山ワールドはむしろ海外での評価が高く、三上博史のデビュー作として知られる「草迷宮」(79)、倒錯的な性体験を描いた「上海異人娼館/チャイナ・ドール」(84)はいずれもフランス資本で製作されている。82年、ガルシア・マルケスの“百年の孤独”を下敷きにした長編映画「さらば箱舟」を監督するが、原作者の了解を得られず二転三転の末、寺山オリジナルの作品として完成を見た。当時、寺山は入院の必要があったがこれを押して撮影を強行。翌83年5月に肝硬変のため47歳の若さで死去した。遺作となった「さらば箱舟」は84年に劇場公開されている。