【長期密着取材で対象に迫る土着のドキュメンタリスト】岐阜県瑞波市の生まれ。生家は代々庄屋で、柳田国男の民俗学と牧野冨太郎の植物学に従って採集・調査をしていた祖父によく同行し、その影響を受けた。1953年、国学院大学文学部に入学して自治会活動や映研創立などに動いていたが、57年に政治活動を理由に大学を除籍。新世紀映画社で独立プロ運動を経験したのち、60年に岩波映画製作所で助監督となって、黒木和雄、土本典昭、羽仁進らからドキュメンタリーの理念や映画作りの実際を学んだ。63年からフリーとなり、66年に監督第1作「青年の海・四人の通信教育生たち」を発表。法政大学通信教育部の勤労学生たちによる“通信教育制度改革反対運動”に2年間密着したドキュメンタリーで、長期密着取材によって対象を掘り下げていく小川の製作方式が、ここで早くも確立した。同作の自主公開にあたり、小川プロダクションを設立。これを製作の拠点とし、高崎市立経済大学の学園闘争を収めた「圧殺の森」、羽田空港闘争記録「現認報告書」(67)を経て、折しも成田新国際空港の建設反対運動に決起した三里塚の農民たちに目を向ける。ここから小川プロは、空港予定地である三里塚で彼らと生活をともにしながら撮影を続け、68年に「日本解放戦線・三里塚の夏」を完成させた。以後も小川プロは三里塚に留まり、「第三次強行測量闘争」(70)、「第二砦の人々」(71)、「辺田部落」(73)など全7作を連作していった。【闘争支援から農業礼賛へ】この間、三里塚の取材と並行して、小川プロは山形県上山市の牧野村に新たな生活の拠点を設ける。75年から同村を中心に農民たちの生活と民俗にカメラを向け続け、同地のPR映画という体裁をとった「クリーンセンター訪問記」(76)のあと、77年に「牧野物語・養蚕編/映画のための映画」「牧野物語・峠」を相次いで発表。さらに牧野村での生活と撮影を続ける傍ら、同村に近い蔵王山間の古屋敷村で、稲作と養蚕に懸けた農民たちの姿を追った大作「ニッポン国・古屋敷村」(82)を完成させる。ベルリン映画祭で国際映画批評家賞を受賞した同作は、国内でもドキュメンタリーの枠を超えて高い評価を受けた。続いて87年には、それまでの10年間に牧野村で撮影された60時間に及ぶフィルムから「1000年刻みの日時計・牧野村物語」を完成させ、前作以上の絶賛を集めた。小川は以後も上山市に留まり、山形国際ドキュメンタリー映画祭の開催を提唱。その実現・運営等に尽力し続けたが、92年2月に肝不全のため死去した。小川の死後、バーバラ・ハマー監督が元スタッフなどの証言から小川プロの実態に迫ったドキュメンタリー「Devotion/小川紳介と生きた人々」(01)が製作、公開されている。