東京市本所区東両国の生まれ。本名・中澤純子。1952年に十文字学園高等部卒業後、日本橋の三越本店呉服部に1年半ほど勤める。花嫁修業で和裁と料理学校に通っていた54 年、友人の勧めで『サンケイグラフ』カバーガールに応募、合格して10 月下旬号の表紙を飾る。これが新東宝宣伝マンの目に止まり、「皇太子の花嫁」55 に妃候補の令嬢役で出演。厳格な祖父の反対で映画は1本のみの約束だったが強く懇望され、55 年に新東宝に正式入社。純情可憐な新スターとして青春映画や時代劇の出演が続き、56年にはメロドラマ「新妻鏡」で初主演。特に清水宏監督の2本、「次郎物語」55 の次郎の姉役、「何故彼女等はそうなったか」56 の薄幸の少女役のひたむきな熱演が注目される。57 年も主に宇津井健の相手役で並木鏡太郎監督「警察官」、石井輝男監督の「リングの王者・栄光の世界」「鋼鉄の巨人(スーパー・ジャイアンツ)」などに出演するが、前年にラジオで共演したジャズ歌手の柳沢真一と結婚、新東宝を退社する。いったんは映画界を引退したが翌58 年、柳沢と別居、協議離婚。新東宝に復帰し改めて専属契約するも結婚に反対だった大蔵貢社長の冷遇が待つ。大蔵ワンマン体制以降の徹底した低予算・大衆路線という状況もあって喜劇の脇役やキワ物映画への出番が多く、「花嫁吸血魔」60 では特殊メイクのモンスターまで演じたが、腐らずに役をこなす。不遇なこの時期にも中川信夫監督「東海道四谷怪談」59 のお梅役などがある。60 年、不倫愛に悩むヒロインを演じたフジテレビの昼のメロドラマ『日日の背信』が大ヒット、“ よろめきドラマ” ブームを呼ぶ。が、魅力を外で開花させたことが大蔵社長を刺激し、一時は大部屋配属の仕打ちを受ける。しかし経営悪化で同年12 月、大蔵は退陣。テレビドラマの出演依頼が相次いでいたが、デビューした会社への筋を通して61 年の製作停止まで新東宝に残る。同年6月、テレビ出演を条件に東宝傍系の東京映画と専属契約。主演第1作となる大岡昇平原作・川島雄三監督「花影」61 は新東宝時代を通じても初の本格的な主演映画で、役柄は銀座のバーのマダム。男達と次々と関係を持ちながら遂に愛を得られぬ女性を力演、高く評価される。以降は定期的に「駅前」「社長」シリーズなどで助演。特に「駅前」シリーズは第4作「喜劇・駅前飯店」62 から全作におきゃんな芸者役で顔を出す。松本清張原作・須川栄三監督「けものみち」65 では寝たきりの夫を殺して這い上がる女の執念を、東映の加藤泰監督「沓掛時次郎・遊侠一匹」66 では侠客の女房の控えめな忍耐をそれぞれ好演。65 年、平岩弓枝脚本のTBS 東芝日曜劇場『女と味噌汁』に出演。しっかり者の芸者が味噌汁屋を開業、笑顔と味噌汁で周囲の人々を温めていくストーリーが評判を呼び、80 年の第38 作まで半年に1本の割合で新作が放送される長期シリーズとなる。67 年にTBS 初のカラー放送ドラマになり、68 年には映画化。毎回20%以上の視聴率を稼ぐため自身も“20%女優” の異名をとる。血のつながりのない子供達を育てる日本テレビ『つくし誰の子』71 もシリーズ化。日本テレビと74 年からTBS 日曜劇場以外は専属出演する破格の契約を結ぶ(80 年まで継続)。たおやかで芯の強い持ち味が日本の女性の理想像を体現、70 年代を通じて国民的ドラマ女優として活躍する。79 年に視聴率42.6%を記録した日曜劇場1200 回記念作『女たちの忠臣蔵』では大石内蔵助の妻・りくを演じた。映画のほうは70 年に東京映画との契約が満了。フリーになって出たのが松竹・山田洋次監督「男はつらいよ・寅次郎恋歌」71の8代目マドンナ。しとやかな未亡人役で、それまでの同シリーズの配収を倍増させるヒットに貢献した。その後の映画出演作は蔵原惟繕監督「道」86、松山善三監督「虹の橋」93 などのみとなる。名実ともにテレビドラマのトップに君臨する一方で、新たな領域としたのが69 年に初舞台を踏んだ演劇。72 年に大空真弓と五月の会を結成後、毎年のように明治座公演の主役をつとめ、80 年代は舞台の活動が中心となる。衰えぬ凛とした魅力に鷹揚な貫禄が加わった90 年代からは再びドラマ出演を望む声が増え、NHK 連続テレビ小説『ひらり』91 の相撲部屋の女将役、同『天うらら』98 の祖母役などで画面に芯を入れる大ベテランの責を担う。テレビ朝日『弟』04 で石原慎太郎・裕次郎兄弟の母を演じ、同局の『点と線』07 では新東宝時代の同僚・宇津井健と共演した。07 年4月に間質性肺炎で入院、その時に肺がんが判明するが抗がん剤治療で治癒、現場に復帰する。10年3月、がん再発。98 年から400 回以上続けていた主演舞台『三婆』の公演を優先して千秋楽まで舞台に立つ。直後に治療を再開するが、9月中旬に容態悪化し、26 日永眠。