山中貞雄、無念の遺作

　1937年の「人情紙風船」であります。監督は山中貞雄、「髪結新三」として知られる歌舞伎の『梅雨小袖昔八丈』（河竹黙阿弥作）を原作とし、三村伸太郎が脚本化したものです。音楽は太田忠。白黒スタンダード、トーキー、上演時間は86分となつとります。前進座総出演。

　舞台は江戸深川の貧乏長屋。イキナリ住人の浪人が首つり自殺をしました。侍なら切腹するところですが、刀は既に売り竹光しかなかつたので、それが出来なかつたと云ふのが侘しい。長屋の髪結新三（中村翫右衛門）はお通夜の名目で宴会を開き、その金はちやつかり大家の長兵衛（助高屋助蔵）に出させます。
　新三は髪結では喰へぬのか、闇で賭場を開いてゐますが、地元の親分・弥太五郎源七（市川笑太朗）がこれを見逃す筈はなく、新三を痛めつけます。それでも凝りぬ新三、又もや賭場を開き、今度は源七に現場に乗り込まれ無一文となつてしまふ。

　もう一人の主役、新三の隣に住む浪人の海野又十郎（河原崎長十郎）は妻のおたき（山岸しづ江）と内職の紙風船作りをしてゐます。仕官の道を求め、亡父が生前世話をした毛利三左衛門（橘小三郎）を頼りますが、毛利は忘恩の徒で、海野を邪慳にし果てはヤクザ者を使つて遠ざけるのです。

　サテ質屋の白子屋の娘・お駒（霧立のぼる）には、御家老が息子の嫁に欲しいと縁談が持上ります。その仲介をするのが毛利ですが、お駒は番頭の忠七（瀬川菊之丞）と密かに恋仲となつてゐます。此の白子屋に、再び賭場を開きたい新三が訪れ、髪結の道具を質入れして金を作らうとしますが、忠七にガンと断られます。

　ある雨の日、傘を取りに行つた忠七を待つお駒に会つた新三は、質入れを断られた腹いせと源七を困らせる為、彼女を誘拐します。この同じ雨の中、海野は毛利から遂にもう二度と来るなと突き放されます。亡父からの手紙も毛利に渡してゐましたが、それも突き返されました。妻のおたきには、お駒の誘拐騒ぎで相手にされなかつたけど、手紙を渡したから、そのうち話を聞いてくれるだらうと嘘を吐きます。しかしおたきはその嘘を見破つてゐました......

　28歳の若さで戦病死した山中貞雄の遺作。その前年、27歳の時に演出した充実の一本であります。生涯で26本の監督作品があるさうですが、フィルム消失などで、まともに現存するのは本作の他、「丹下左膳余話 百萬両の壺」「河内山宗俊」のみ。
　この二作が喜劇的な躍動感があるのに対し、「人情紙風船」ではどこかどんよりとした空気に包まれ、厭世観に満ちてゐます。勿論長屋の連中は能天気に明るく（金魚屋・源公の中村鶴蔵と、按摩の板東調右衛門とのやり取りは愉快）、髪結新三の中村翫右衛門（梅之助の父にして梅雀の祖父）は兎に角ポジチブ。

　一方で困窮する浪人たち（冒頭では切腹すら出来ぬ浪人が首つりをする）の姿も描き、その象徴が河原崎長十郎（長一郎・次郎・建三の父）演じる海野又十郎。毛利に対して下手に出るも、全く相手にされず屈辱を舐めます。それがお駒の誘拐騒ぎで毛利がすつかり困り果ててゐるのを知り、声を出して笑ふ姿は全く爽快感はなく、逆に無気味さを醸し出してゐます。
　因みに妻役の山岸しづ江は、実際に河原崎長十郎の妻で、最後まで遂に笑顔を見せず、ある決意を秘めた演技は絶品でした。ヒロイン霧立のぼるは宝塚出身で当時PCL専属。娘の霧立はるみは「大怪獣ガメラ」でヒロインを勤めた人。

　エンディングの、子供が大家に事件を知らせに行く途中、紙風船が溝に落ちる演出も中中考へつかないところです。まさか一年後の自分の死を予感した訳ではありますまいが、ラストの心中まで含め、死の影が忍び寄る作品でした。戦争が稀有な才能を潰してしまつた事には無念しかありません喃。彼が長生きしたら、日本映画史は大きく変つてゐたかもしれませんねえ。