京浜工業地帯の一角で鉄工所を経営している川瀬周三は、昭和四十一年になって、めっきり身体のおとろえを覚え、工場の実務を二十六歳になる一人息子の武志に譲った。そして、秋には、妻・雪枝の郷里から田切杏子を迎え、結婚式をひかえていた。順風満帆、周三にはおだやかな老後が残されているだけのように思えた。昭和四十一年五月、武志は、友人吉川と近くの釣り堀に出かけた帰り道、ある若者に、すれ違った瞬間、腹部を刃物で刺された。武志の傷は深く、「お父さん、口惜しいよ、こんなことで死ぬなんて、仇は必ずとってくれよ」と言うと、周三の腕の中で息たえた。犯人は事件から三日後、自首してきた。ヤクザに「お前には蠅の一匹も殺せないだろう」と言われ、カッとなって、“誰でもいい、最初に行きちがった奴を殺そう”と話す。武志の葬儀を境に、周三の生活は一変した。工場を放り出し、墓地通いが続く。昭和四十二年二月、事件から十ヵ月近くして判決が下った。被告が未成年であり前途あることから〈五年乃至十年の不定期刑〉であった。軽すぎる刑に周三は怒った。周三は法律相談の窓口を訪ねるが、こうした故なき災害に対する被害者遺族の補償は全く無いに等しかった。周三は法律の勉強を始め、そして、事件発生以来熱心な取材にあたっている新聞記者、松崎から紹介された、娘を殺された中沢や全国の同様の境遇の人たちと被害者遺族を保護する法律を作ってもらうよう国会に働きかけることを誓う。周三は、工場を売却した資金で全国を回って、被害者遺族に会った。遺族の一人から京都の若手大学教授がこの間題に取りくんでいると聞き、周三は京都に行き、運動は大きく前進した。やがて、周三を中心とした全員の長い間の努力が実って、新聞やテレビも取り上げるようになり、政府も重い腰を上げた。昭和五十一年七月、周三は参考人として衆議院法務委員会へ招かれた。そこで法律の矛盾とこれまでの自分の体験を涙なからに訴えたのである。だが、その直後、周三は極度の疲労による心筋梗塞で倒れてしまった。昭和五十二年一月、周三は息子武志が息を引きとった病院で、六十六歳の生涯をとじた。枕元で妻雪枝がそっと語りかけた。「あとは私がひきついで、運動は続けていきますからね、見ていて下さいね」