一九六二年五月一二日深夜西宮港を、二人の親友に見送られてヨットに乗り移った青年がいた。堀江謙一、この二二才の青年のあやつるヨットは、“マーメイド号”という、長さ五・八メートル、幅二メートルのもの。風のみで走るように設計された船は、三十九時間も大阪湾内を浮きつづけたあげくやっと北風に乗り、大阪湾を乗りきることができた。が海の荒れが彼を待っていた。食べものは吐く、ヨットはキリキリ舞い、しかしその代償として、最も恐れる巡視艇にみつからずにすんだ。彼の行為は日本の法律では許されず密出国となるのだ。悪天候と体力の消耗、それに狐独との戦いは、人間の限界を越したものである。憧れの太平洋に出た日、台風三号に襲われた、大きな巻き波にふりまわされるヨット、苦しい戦いは、堀江青年の苦心の錨操作できりぬける事が出来た。二日二晩の苦悩は彼に母国への郷愁と、孤独感を残した。飲めない酒に心をまぎらわそうとするのも、そのためだ。食事はカン詰を副菜に、水不足のため、ビールで飯を焚いた。ハワイを過ぎた頃、マーメイド号は一万トン程の貨物船に出会った。無精ヒゲで真黒にやけた小さな日本人が片言の英語で渡りあう姿に船上の人々は驚嘆の目をむけた。パスポートの提示を要求されて、危うくこぎ去った堀江青年、緑色の海原、目指すサンフランシスコに近づいたのだ。碁盤の目のようにまたたいている街の灯、長い光の列を目前に、「お母ちゃん、僕きたんやで」青年堀江謙一は操舵席に両足をふんばって立ち、大声で叫けんだ。百日に及ぶ太平洋征服の夢が今実現したのだ。