戦国時代。甲斐国の笛吹橋の袂に一軒の貧しい家があった。敷居は土手と同じ高さだが、縁の下は四本の丸太棒で土手の下から支えられていて遠くからは吊られた虫籠のように見えるので、村ではギッチョン籠と呼ばれていた。この百姓家には、おじいと婿の半平、孫のタケ、ヒサ、半蔵が住んでいた。もう一人の孫は竹野原に嫁いでいた。おじいは、半蔵がお屋形様(武田信虎)の戦についていき、飯田河原の合戦で手柄をたてたのに大喜びである。お屋形様に生れた男の坊子(ボコ)の後産を埋める大役を半平が申しつかった。おじいがその役をひったくったが、御胞衣を地面に埋める時血で汚し、家来に斬られた。その同じ日、近くの家で赤ん坊が生まれ、その子はおじいの生れ代りと信じられた。やがて、半蔵もおじいと同じ左足に傷を受けてチンバになり、遂には討死してしまった。しかし、戦についていくと褒美が貰えたり、出世したりするので、村の若い者はみんな戦に行きたがっていた。年は移り、ミツの子・定平がおけいを嫁にした。おけいはビッコだったが、よく働いた。そのうち、半平は病死した。歳月は流れた。定平とおけいの間には長い間ボコが生れなかったが、双子嫁の万丈さんが死んだ日、惣蔵が生れた。一年を経て、次男の安蔵が生れた。タケとヒサが死んで惣蔵が三つになった時、ミツが後妻に行った山口屋が大金特になりすぎたためにお屋形に嫉まれて焼打をくった。ミツは殺され、子供タツは娘のノブを連れて甲府を逃げ出し、定平の世話でかくまわれた。タツはお屋形様に恨みを抱き、武田家を呪った。ノブは男に捨てられ、男のボコを生み落したが寺の門前に捨て、死んだ。やがて、定平とおけいの間には三男平吉が生れ、三人の男の子と末娘ウメを抱え、夫婦はオヤテット(手伝いに行くこと)に出て働いた。子供たちは成人し、惣蔵と安蔵は戦に行った。ウメまでも奉公に出てしまった。やがて、信州の高遠城が落ち、惣蔵たちは笛吹橋に敗走してきた。おけいはお屋形様の行列を追って、笛吹川の土手を駈けながら子供たちの名を呼び続けた。しかし、子供たちはふり返ろうともしなかった。涙を拭いながらおけいは行列についていった。行列は天目山をめざした。安蔵と平吉は甲府のお聖道様の許に馬を馳せたが、敵の囲みを破って引き返すのが精一杯だった。二人が戻った時には、惣蔵の子久蔵を抱えたおけいも、ウメも死んでいた。安蔵と平吉は、お屋形様の人たちがたてこもった恵林寺に向ったが、十重二十重にとり囲まれ、火をかけられていた。安蔵と平吉は刺しちがえて倒れた。ノブの子次郎を求めて駈けつけたタツも炎にまかれてしまった。定平がたった一人とり残された。笛吹橋の下で野菜を洗おうとしゃがんた定平の目前に、武田家の旗差物が流れていく。