1960年6月15日、国会前は日米安保条約に反対する10万人のデモ隊で埋め尽くされた。ベトナム戦争、パリの5月革命、文化大革命、日米安保反対闘争、世界がうねりを上げていた1960年代。学費値上げ反対運動に端を発した日本の学生運動も、安田講堂封鎖、神田解放区闘争、三里塚闘争、沖縄返還闘争など農民や労働者と共に社会変革を目指し、勢いを増していった。活動家の逮捕が相次ぐ中、若者たちは先鋭化していく。ブントの内部対立によって組織された赤軍派と、中国の文化大革命に同調する神奈川の組織から分離独立した革命左派が、1971年7月、統一赤軍を結成。その一ヶ月後に名称を連合赤軍とした。同年8月、連合赤軍最高幹部である永田洋子(並木愛枝)の命令により、逃亡した早岐やす子(田島寧子)と向山茂徳(黒井元次)が処刑される。数ヶ月後、革命に全てを賭け、山へと入っていった連合赤軍メンバーは、次第に総括、自己批判という名で同志たちを追いつめていく。まず、指導部らに自己批判を求めた加藤能敬(高野八誠)と恋人の小嶋和子(宮原真琴)へ暴力による総括が始まり、1972年1月ふたりは死亡。永田に目をつけられていた遠山美恵子(坂井真紀)も総括によって死亡する。その後も、次々と同志を死に至らしめていくが、2月16日、榛名ベースが警察に見つかり、山越えを開始。坂口弘(ARATA)、加藤倫教(小木戸利光)、加藤元久(タモト清嵐)、吉野雅邦(菟田高城)、坂東國男(大西信満)の5人は軽井沢のあさま山荘に立てこもる。そして2月28日、山荘の周囲を警察や機動隊に囲まれてメンバーが達観したように言葉を交わす中、16歳の加藤元久が激昂して「僕たちは勇気がなかっただけじゃないか!」と叫ぶのだった……。