【執拗な長回しで新人俳優をシゴく粘りの相米演出】岩手県盛岡市の生まれ。のちに北海道に移り住み、高校卒業後に上京して中央大学法学部に入学する。1972年に大学を中退。日活の契約助監督として曾根中生らについたのち、75年からフリーとなって長谷川和彦、寺山修司らの助監督を務めた。80年、薬師丸ひろ子の初主演作「翔んだカップル」で監督デビュー。この作品からすでに、のちに相米の代名詞となる“ワンシーン=ワンカットの長回し”が随所に見られ、何度もリハーサルを重ねて役者をシゴく粘りの演出姿勢が顕著だった。81年、再び薬師丸主演で「セーラー服と機関銃」を監督。デビュー作同様、薬師丸を売り出すためのアイドル映画的な企画でありながら、執拗な長回し、観客を突き放すロングショットの連続など“相米節”の作風は変わらず、それでいて作品は薬師丸人気に支えられて大ヒットを記録した。厳しい演技指導も若い俳優たちの成長を促すものとして、続く「ションベン・ライダー」(83)でも河合美智子、永瀬正敏らを徹底的に鍛える役割を任された。その間の82年には、長谷川和彦の呼びかけでディレクターズ・カンパニーの結成に参加。まぐろ漁師が主人公の骨太のドラマ「魚影の群れ」(83)で大人の映画も撮れることを証明し、続く84年にはディレカンのシナリオ公募準入選作「台風クラブ」を映画化する。同作は翌85年の第1回東京国際映画祭でヤングシネマ部門の大賞を受賞。相米には賞金として次回作の製作資金が贈られた。この85年は「台風クラブ」のほか、日活ロマンポルノ「ラブホテル」、斉藤由貴の初主演作「雪の断章・情熱」と併せて3本の作品が公開される相米の当たり年となった。【円熟を迎えた矢先の早すぎる死】ヤングシネマ部門大賞の賞金で当初は武田泰淳の『富士』の映画化が予定されたが、賞金額の減額などもあって企画を変更。小檜山博原作の「光る女」(87)に賞金を充てた。しかし、予算を大幅にオーバーした「光る女」は興行的にも失敗し、続く「東京上空いらっしゃいませ」(90)も新人女優・牧瀬里穂の育成には成功したが、やはり大きな赤字を出してしまう。結局ディレカンは、その2年後の92年に倒産した。93年の「お引越し」、94年の「夏の庭/TheFriends」では独特の長回しは次第に影を潜め、いずれも主人公の子役俳優たちをのびのびと動かす辺りに“相米節”の片鱗が感じられた。作品そのものの完成度は高く、相米本来の演出力が証明されたとも言える。その傾向は続く「あ、春」(98)、「風花」(01)でも顕著で、静かな落ち着きの円熟期を迎えたかにも見えた。しかし、次回作として浅田次郎の『壬生義士伝』の映画化を準備していた2001年9月、肺ガンのため53歳の若さで死去。相米が遺した作品はわずかに13本だが、そこから巣立った新人俳優やスタッフ、相米作品に影響された作り手たちは数多い。