天平五年春、若い日本人僧、普照、栄叡、玄朗、戒融の四人が第九次遣唐使船に乗って大津浦を出航した。留学僧に選ばれた名誉と、再び生きて日本の地を踏めるかという不安が一行を包む。特に普照は美しい許婚者、平郡郎女と苦悩の末、別れての出発だ。この時期、日本最大の課題は律令国家の建設であり、仏教界の確立であった。四人は唐の高僧の渡日要請の任務を持って洛陽に入った。一行は玄宗帝に迎えられた。そこで、挫折した留学僧や、経典を正しく日本に伝えるため写経に一生を賭している業行などに出逢う。四人は玄宗帝に従い洛陽から長安に移るが、渡日を快諾してくれる高僧にはなかなか会えない。日本を出てから十年目、一行は道抗の高弟の鑒真和上を知る。この間、戒融は仏陀の真理を悟るため一人旅立っていった。和上は一同の熱意に渡日を表明する。しかし、日本人僧の帰国渡航は非合法であり、まして中国人僧が渡日すること赦されることではなかった。そして普照らの行動は張警備隊長に監視されることになった。そして、栄叡と道抗は密出国の主謀者として逮捕され、自信を失った玄朗は一行から別れていった。三年後、道抗は獄死し、栄叡は釈放される。天宝七年、和上は渡日を決行するが、暴風雨に遭遇して失敗、栄叡は疲労と熱病で死亡する。その頃、奈良朝廷は第十次遣唐船の出航を決定、四人が出てから二十年が経ていた。普照は還俗した玄朗からその話を聞き、駐唐大使、藤原清河を訪ね、和上の渡日を要請する。一方、和上は度重なる疲労から失明していた。そして、一同の情熱に、張警備隊長の温情もあって、普照らは日本に向う船に乗った。しかし、業行を乗せた第一船は嵐に会い写経した厖大な経典も人命救助のため無慈悲に海中に投げ捨てられると、業行もその経典と共に荒れ狂う波間に身を躍らせた。渡日のための試みを重ねたあげく鑒真和上、普照らを乗せた船は、薩摩の国、秋妻屋浦に着き、奈良に向った。和上が渡日を決意して十二年目、普照が渡唐してから二十年目であった。黄土に眠る栄叡、妻帯して暮す玄朗、仏陀の真理を求めて行く戒融、そしていま、普照は鑒真和上と奈良の地を踏んでいる。母の姿はなく、嫁いで子供をもうけた郎女が彼の帰還を喜んでいる。天平宝浩三年、鑒真和上は西京に唐招提寺を建立、全国から学従が集り、講律、受戒が行なわれた。