沼崎敬太がまだ東京のある撮影所の脚本研究生であったとき、下宿の娘孝子と相愛の間柄になった。しかし、孝子の父は映画に理解なく二人の結婚に反対して沼崎を家から追立てた。孝子は父に叛いて敬太の許へ走り、二人の結婚生活がはじめられた。その頃日本は軍閥政治の重圧の下にあり、映画製作会社の合併問題など起り、人員整理の嵐が当然敬太にも波及しそうになったので、敬太は孝子と計って京都の撮影所企画部長増田氏を頼って行った。増田氏の紹介で敬太は坂口監督の仕事をもらい、孝子の内職などで糊口をしのぎながら、一作を書きあげたが、坂口監督からは、最初から勉強のしなおしをするんだねといって脚本を返された。自信を失いそうになった敬太を励ました孝子は、再び苦しい内職に夜を日をついだ。敬太も死もの狂いの勉強をはじめた。そうして書き上げた脚本はようやく坂口監督の気に入ったのであったが、孝子は長い間の無理がたたって急性結核で倒れた。敬太が坂口監督の命で第二稿、第三稿と書き直しをし、ついに明日決定稿を渡すという日、孝子は「一生シナリオを書いて」という遺言を残して静かに死の眠りについたのだった。