元和九年五月十一日、徳川二代将軍秀忠が江戸城大奥にて病死した。将軍秀忠の死は、発病後わずか二時間というもじどおりの急死であり、そこに不自然な異変の匂いを嗅ぐ者もいたが、大奥御典医は、食あたりによる中毒死として発表する。三代将軍の座は秀忠の長男の家光が継ぐべき筈であった。しかし亡き秀忠は次男の駿河大納言忠長を溺愛し、秀忠夫人崇源院於江与も、また時の天皇御水尾帝の妃となっていた長女の和子も、次期将軍には忠長を切望していた。熱心な忠長擁立派の老臣たちも多かったが、若手老中松平伊豆守信綱や春日局の一派は、あくまでも家光を推してゆずらず、大阪夏の陣以来十余年の安定に馴れた天下は、再び動乱の兆を見せ始めた。家光を推す松平伊豆守は、今後の策を相談するため将軍家剣法指南役の柳生但馬守宗矩を訪ねた。そして、但馬守は長男の十兵衛三厳を忠長のいる駿府城下にもぐらせ、又土井大炊頭の近辺を見張らせる。数日後、駿府に戻った大納言忠長のために自由の身となって尽くすべく、土井大炊頭は病気保養という名目で老中職を退く。一方、家光側では対抗策として松平伊豆守を老中に、柳生但馬を大目付に据えて、家光陣営の強力をはかった。家光と忠長の争いは将軍職争奪の一点に絞られる。松平伊豆らは御所を訪れ、家光への将軍宣下の詔勅を待ち受けるが、京都宮中の思惑がからみ、返事は得られなかった。そんなある夜、江戸城西丸大奥で家老は、侍女に化けた玄信斎の弟子、歌舞伎役者の雪之丞に襲われる。この事件を機に、但馬守の忠長派打倒は急がれた。但馬守は十兵衛を京都ヘ仕わし、宮中一のきれ者といわれる文麿を討たせる。文麿の死に戦慄した朝廷は、直ちに勅使を江戸に下らせ、弁明と慰撫に当らせる。そして、間もなく家光の上洛が決まった。衝撃を受けた忠長は重臣と策を練り、家光より先に京都へ入り、朝廷と話し合うことを決意する。その頃、家光の行列が、駿府城下の浪人軍に襲われ、三条大納言実条が殺された。この襲撃は、忠長の仕業に見せかけようと、但馬守が根来衆を使って仕組んだものであった。家光は諸大名に檄をとばし、忠長との一戦も辞さずと、決意を披瀝する。忠長は、一戦を混じえる覚悟であったが、信頼を寄せる大納言義直の説得で開城に承知する。そして忠長は上州高崎へ配流された。数日後、家光襲撃は但馬守の陰謀であったとの報を耳にした義直は、但馬守を問いただすが、彼は強く否定する。その直後、但馬守は息子又十郎に命じ、根来衆を惨殺させる。根来衆と十余年を共に過ごした十兵衛はそれを知り、父・但馬守への復讐の念に燃える。その怒りは三代将軍についた家光の首をとることによって示された。そして、柳生一族の陰謀の渦中に展開した闘争も、但馬守と十兵衛の宿命の対決を迎えるに至った。それはまさしく、徳川家の輝しい歴史の中に消えていこうとする、父と子の姿でもあった。