早瀬主税は独和辞典の編纂にあたっている酒井俊蔵の愛弟子としてそれを手伝うかたわら教師として学問にいそしんでいた。彼には芸者上りの愛人お蔦があり湯島妻恋坂に世をしのぶ世帯を持っていたが酒井は十三年前静岡の焼跡から連れて来て育て上げた主税と兄妹同様の一人娘妙子を行く末は添わせたいと考えていた。或日酒井に呼ばれた主税はお蔦の事が知れたものとおそるおそる訪ねてみると、それは酒井の情けで辞典の原稿料が手渡され、彼は感激するのだった。或る夜、夜店ですりが捕まり、お蔦の帯の間にその紙入れがはさまれていたことから彼女も仲間として大きく新聞に書かれ酒井の耳にも入るところとなった。それと知らない主税はお蔦との結婚の許しを得ようと酒井に会ったが反って女と別れるように言渡され、義理と愛情の間に立った主税はお蔦を湯島の境内に連れ出し別れて呉れと頼むのだった。その言葉に驚ろいたお蔦もそれが酒井の厳命とあっては返す言葉もなかった。主税は仕事の為静岡へ行き一人残されたお蔦も日夜主税を想うあまり病の床に伏す様になった。二人の仲を裂いた酒井はかつて芸者との間に子までなしながら学問のため女を捨てた身でありお蔦の心情を察し断腸の思いだった。重態になったお蔦の病床を見舞った酒井は“お蔦、早瀬が来た。ここにいる”とはげまし微笑しながら息を引きとって行く彼女を見守るのだった。主税がかけつけたときはすでにおそくお蔦はこの世の人ではなかった。